1978年 5月16日 生まれ
広島県福山市出身
星座 おうし座
動物占い どっしりとしたサル
特技 バレーボール 筋トレ 料理 献血
2003年
国立徳島大学歯学部を卒業後、
福岡・宮崎・広島の歯科医院に勤務。
2009年
さつき歯科クリニック開院
みなさんが笑顔になれる歯科医院をつくるために現在も日々奮闘中。3児の父。
小さい頃の私は、とても体が弱く、おとなしい子供でした。歳を重ねていくにつれ、だんだん丈夫になっていき、今ではすっかり健康ですが、いろんな病気(!?)を経験させていただきました。
・ アレルギー性鼻炎で毎週耳鼻科に通う ・ 喘息で苦しむ
・ しょっちゅう風邪をひいて病院に通う
(幼稚園の卒業アルバムも風邪のため、1人だけ左上の四角い枠の中におさまってました)
・ アデノイド(扁桃腺の巨大化)を切除する ・ 急性盲腸で苦しみ、切除する
(痛くて動けないのに原因がなかなか分からず、総合病院で半日たらいまわしにされる。はじめての全身麻酔)
などなど、ほんとうに両親には迷惑をかけてばっかりでした。平日は母親に、週末でお仕事がお休みのときには父親に病院に連れて行ってもらいました。両親には、本当に頭が上がりません。
これといって取り柄はなかったのですが、手先は器用でよく褒められていたのを覚えています。図工の時間はとても好きで、細かい作業は得意でした。絵のコンクールでも表彰されて、新聞にも載りました(母親による修正のおかげですが・・・)
私の父は電話会社のごくごく普通のサラリーマンでした。お酒も弱く、タバコも吸わない、あまりしゃべらない、物静かな父親でした。小さい頃はあんまり2人きりで遊んでもらった記憶がないのですが、いろんなとこに家族旅行に連れて行ってもらいました。昔のアルバムをみると、家族旅行の写真もいっぱい撮ってくれていました。最近は体調を崩して家で療養してあまり外出もしない日々が続いていますが、体調がすぐれない中、僕の結婚式に無理して出席する姿をみて、ジーンときました。
生まれてから小学校3年生までは京都府八幡市で育ちました。大阪府のお隣で、都会の近くでありますが、緑も多く、とてもいい環境だったと思います。
父親の仕事の都合で、転勤になり、小学校4年生のときに広島県因島市、小学校5年生からは広島県深安郡(現在福山市)、と全部で3つの小学校に通うという貴重な経験をしました。どんどん田舎の緑が多い方に住む場所が変わっていったのですが、少しずつ体が丈夫になっていったのは、空気がおいしいからでしょうか。3回も転校をするとあちこちに友達ができ、夏休みなどに泊りがけで遊びに来てくれることもありました。そんなときは、友達と離れるのは寂しいけど、転校するのも悪くないなぁと思いました。
中学校は家の近くの公立校に行きました。このころは、どんな職業に就きたいとか、どんな大人になりたいとか、具体的な目標はなく、ただ漠然と受験勉強をしていました。国立の高校を受験しましたが、見事不合格でした。
高校は近隣の公立高校に入学しました。自転車で片道40分かけて通いました。高校に入学すると、進路を決めなくてはならず、おおいに悩みました。母親は公務員がいいんじゃないの?とよく僕に言っていましたが、自分の中ではなんだかピンときませんでした。具体的に何をするのかがわからないということと、思春期特有の反抗期で親の言いなりにはなりたくないとの思いから、他の道を探しはじめました。
高校1年の進路相談で、いろいろ先生からアドバイスをもらったときに、はじめて歯学部という選択肢がでてきました。手先が器用なので向いてるかも、医療関係の仕事には興味があったこと、転勤もなくて子供と一緒にいれそう、など、それ以降私の歯医者さんへの道がはじまりました
なんとか徳島大学歯学部に入学し、念願の一人暮らしがはじまりました。当たり前ですが、掃除・洗濯・料理など今までまったく経験のないことを自分でしなければなりません。高校を卒業したら、絶対に家を出て行きなさいと、母親はよく言っていました。親のありがたさや、家事の大変さなど、今まで気づかなかったことがたくさん分かり、親にはとても感謝しています。
大学生といえば、サークルだ!!と思っていたのですが、入学してから先輩の勧誘で入ったのは、今まで全く縁のなかったバレーボール部です。なぜバレー部?とよく聞かれましたが、背が高いから、一番熱心に誘われたから、という理由でした。
入学当時の私の体型は183cm・体重60kgという超貧弱、超もやしっこ体型でした。同期のメンバーは4人いたのですが、他のメンバーは軽やかに動く中、当然運動経験のない私は練習についていくのがやっとで、1番下手くそでした。みんなから、あいつは絶対やめると思われていた中、夏の1番大きな大会でチームが優勝したことがきっかけで、自分にもスイッチがはいりました。
まずは、この体格をなんとかしなければ、ということで、ダンベルを買い、みんなより早く部活に行って、筋トレを続けるのを引退するまで続けました。プロテインを飲んでみたり、夜中に走ったりと、いろいろ努力した結果、同期のメンバーと同様にレギュラーとして活躍できるまでになりました。継続は力なり、とは本当で、努力すること、続けること、上下関係など、数え切れないほど貴重な経験をさせてもらい、バレー部に入って本当によかったと思います。
ですが、世の中そんなにうまくいくことばかりではなく、骨折したり、靭帯のばして松葉杖をついたりと、かなり痛い目にもあいました。
歯学部のカリキュラムでは、実習を休むことは許されず、休めば留年という厳しいものでした。なかでも1番思い出深いのは松葉杖をつきながらの解剖実習です。薬品や臓器が左足のギブスについてしまうと、匂いがとれません。夏の暑い季節に、左足のギブスをゴミ袋でグルグル巻きにして、白衣・ゴミ袋・ギブスの3点セットでホルマリンの匂いの中、解剖実習をしたことは今では良い思い出になっています。
大学を卒業後、歯科医師免許を取得し、これから患者さんのためにバリバリ頑張るぞ、と勤務医生活をスタートしましたが、自分が描いていた理想とはほど遠いものでした。まず、治療も満足にできない免許とりたての歯科医師で、患者さんと十分にコミュニケーションをとる余裕などありませんでした。
とにかく、まずは治療技術を上げようと、日曜日も病院に出てきて、ただひたすら練習する日々でした。ゴールデンウィークも医院に出てきてトレーニングして、なんとか先輩ドクターに追いつこうと必死に頑張りました。
だいぶ職場にも慣れてきたころ、一番自分が楽しいと思うものが見つかりました。それは、子供たちが上手に治療できて、満面の笑顔を見せているときでした。
もともと私は子供が大好きです。
小学校の卒業アルバムで「20年後の自分はどうなっていますか?」という質問に、みんなは「・・・・になりたい」とか書いているのに、私は「自分の子供と遊んでる」と書きました(小学生の自分も、じゅうぶん子供なんですが・・・)。
いろんな子と出会いましたが、なかでも一番の思い出の女の子がいます。 歯医者大嫌いのその子が、頑張って頑張って治療に通てくれて、何回にもわたる治療がやっと終わった最後にお手紙をくれました。私の宝物です。 元気がないときには、この手紙を読み直して、元気をわけてもらっています。
これまでの歯科医院は「痛い」「怖い」「暗く冷たいかんじ」とマイナスイメージが強く、「痛くなったら行く」場所でした。しかし私は、そのイメージを変えたい!と思っています。
これからのお口とお体の健康のために、積極的に「痛くなる、悪くなる前に行く」場所として愛されたいと思っています。
できるかぎり、一生ご自分の歯で、おいしく食事ができる幸せを、どなたにも味わっていただきたいのです。
そのために、「緊張して歯科医院に行く」ではなくご来院の皆様に「リラックスして楽しく通って」いただけるような歯科医院をつくりたいと思います。
さつき歯科クリニック院長 徳永憲佑